人見知り肯定論 全然まとまってないvar.
話せばわかる。確かに話す事で互いに分かり合える事は多いだろう。しかし、他者とコミュニケーションをとる方法として話す事はほぼ最終手段に近いと思っている。
その理由はコミュニケーションをとる事において言葉以外の要素が重要な役割を果たすと言うことと、言葉や文章などの言語は核心を覆い隠す性質があると言うことである。
前者について、他者の外見や表情、仕草はその人がどんな人であるかの潜在的印象を抱かせるだろう。この自分勝手な理解と言うのは、それぞれ互いに無意識の中で行われていて、自分の中での相手の居場所と言うべきか、そういったカテゴライズを行うことである。相手と話さなくてもこの行為は行われる。会話に至るにはこの双方のプロセスの中に、言葉を交わす事を許可する隙がどちらかにあり、また、勝手な理解の中に自分の興味がわくことがある必要がある(十分条件のみだが)。 また普段から近くにいる相手、どんなことをしていて、どんな人かある程度知っていたりすると、その人の様子や行動からさらに自分の中でのその人に対するイメージは固まって行く。その人の立場や状況からどんなことを考えているか、と言うことを考えれば会話を持たなくても理解することはできる。
要するに、他人を理解するための方法は話す事が最善策ではないということを言いたいのだ。最終手段だと言うのはそうせざるを得ない状況(初対面の相手など)が有るからであり、ショートカットして他者理解をしたい欲求がある場合などであるからだ。 ここは少し意見が割れそうであるが、他者理解の為の時間スパンの持ち方の違いがあるからであろうと思うのだ。人見知りはもちろん、人との会話が恥ずかしいとか何を話してよいかわからないとかあるけれど、話すことに重きをおかないタイプもあるわけで、人見知りではない人であっても、他者理解の為の会話以外の要素を軽視してはならないと思う。そういった要素からの理解は言語化しにくい部分でもあり直接話のきっかけにはならない事が多いけれども、例えば、話の聞き役に回った際の会話の要点や、相手の心情の理解度は普段からの会話以外から感じられる相手のイメージの大きさによって変わると思うのだ。
なぜ会話以外から得られる相手のイメージが理解度に影響するかと言うのは、会話の際に発せられる言葉や綴られた文章といった言語化の工程を経たアウトプットには印象や感じたことと言った無形の要素が削り落とされているからである。言語は高度に抽象化された形でのみ存在し、知覚され表現の核になる部分を包み込むような構造を持つ。言語によって表現の対象の核にいくら近づけようとしてもトーラスの表面を中心に向かってなでるだけでまた元の表面上の位置に戻ってしまう。その中心部分の理解は聞き手側の内部受領(?)、つまりは勝手な理解に依存するのである。その点から会話自体ではは他者理解の深層部に到達できないと言えるのではないか。これが言語の不完全さという視点からの考えだ。
しかし、まぁ会話というコミュニケーションは普通交わされる言葉、内容のみから成り立つわけではない訳で、空気読めないとダメな訳だから、その部分に関しては当たり前のことを言ってるだけ。勝手な予想による相手のイメージを持つと言うのは人見知りだから意識している事かもしれない。これは逆に考えるとそう言ったイメージや、カテゴライズができていない段階はその相手と接することに何かしらストレスを感じるから人見知るのかもしれない。結局は程度の問題で片付くんじゃなかろうかとか、全然まとまっていない。